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連載 〜須屋・黒石の歴史を探る〜
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第16号 2004/1/28発行

地名「須屋」の由来

 平安時代の終わり頃、都に、源為朝(みなもとのためとも)という武将がおりました。小さい頃から大変な力持ちで、弓矢の名人でもありました。しかし、あまりにも乱暴者だったのでとうとう父の為美(ためよし)から九州に追いやられてしまいました。

 最初は、豊後の国(大分県)にいましたが、やがて肥後(熊本県)に入り、阿蘇氏と結んで、阿蘇平四郎忠国の娘を妻にしました。そして、九州全体を従えようとして、九州の総大将鎮西八郎と名乗って各地をあばれてまわりました。

 さて、ある日のことです。この鎮西八郎為朝が狩りに出てえものをさがしていますと、一羽のうさぎが走ってきました。為朝は「しめた!」とばかりに矢を使って「ヒューッ!」と射ましたが、どうしたことか名人為朝の矢がそれて、うさぎのそばにあった石にあたってしまいました。うさぎはおどろいて、一目散に立田山のふもとの谷まで逃げていきました。この谷を兎谷と言います。

三ツ石 熊電、電車のホームのすぐ近くにある

 話を聞いた村人たちは、「的をはずれた矢」という意味で、為朝が矢を射ったところを「ソヤ」(素矢)と呼ぶようになりました。それがいつの間にか「スヤ」と呼ばれるようになり、今の「須屋」(すや)になったということです。また、屋が当たった石は、矢じりにけずられてくぼみ、そこにたまった水をつけるといぼが治るといわれたものですが、いつのころにかくぼみは隠れてしまったそうです。この石については「三ツ石バス停」の東側にある三ツ石がそれだいう説と、山の斜面にある「からす石」がそれだという説があります。もう一つ、矢を放った人についても、実は鎮西八郎為朝ではなく、須屋城主の須屋市蔵という人が放ったものだとうい説もあるようです。


(資料提供 西合志中学校)

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