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連載 〜須屋・黒石の歴史を探る〜
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第13号 2003/10/26発行

五ヶ所地筒と黒石の入植
 曠原叢野が夕陽を浴びる時節は放鷹の催しには絶好の場所であった為に、忠利公は幾度か放鷹されているうちにこの地域に「地筒」を置く事を考えられた。それを示す次の様な文書がある。

 「寛永十三年妙解院様御鷹野ニ被遊御成候節、上林甚助殿江御上意之趣ハ菊地往還ヲ限西之境ニシテ合志郡鳥栖村弁天山ヨリ群山ヲ目当ニ北之境ニシテ是ヨリ小山之山ヲ目当ニ立田杉馬場限東之境ニシテ立田山神子松ヲ南之境ニ植此内ニ地筒百二十人御仕立可被遊旨被仰出五ヶ所組屋敷床迄印ヲ被爲立地御鉄砲之者方々ヨリ被召抱候事」『万見合帳』(細川家文書永青文庫蔵)とあり、「五ヶ所地筒」が仕立てられた事を知る事ができる。
 集まって来たのが「諸国の浪士」たちで、黒石組として入植したは中国辺りから、あるいは豊前や山城・丹後などと云われている。それら伝承として伝わる一端の裏付けを語るものとして掲げれば「丹後国柳瀬より肥後国・細川三斉公丹後之国御入国の辻御とも」(史料・個人蔵)と記されたものが見られ、移住を知ることができる。『万見合帳』に組屋敷床迄との記述があるとおり、入植した黒石組は菊地往還(現国道三八七号)を挟み東に十七戸、西に十九戸を配し、組屋敷床の曠狭の違いは見られるが、その広さ幅に沿って山林・畠と続き東に約一?西にも同じ程の長さに地割りが施されていた。

 現在多少の変化はあるが、原型を観る事ができる。寛永十三(一六三六)年の入植に当たって、細川藩では地筒の将来を慮って系図を焼かせたとも、埋めたとも伝えられているが定かでない。
 「五ヶ所地筒」とは黒石・花立・楡木・麻生田(新地)兎谷の総称である。寛永十一年から十二年にかけて、合志郡の大津新所(鉄砲小路)(現菊池郡菊陽町)詫麻郡の保田窪(現熊本市保田窪本町)などが入植した。前述の二ヶ所を加えて「七ヶ所」となり、さらに保田窪より分出の平山(現熊本市松尾町平山)を加えて八ヶ所とも云う。

(資料提供 西合志町郷土史愛好会 伊藤英夫)


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